金田一秀穂さんの文
本屋の辞典コーナーを見ていたら、金田一秀穂さんの本があった。
秀穂さんのことは知っていたものの著書を読んだことはなかったのでパラパラとめくってみたら、
「『落語』がある日本がうれしい」
という見出しが目に飛び込んできて、うれしくなった。
グッと手に力を込めてパラパラしていたら、今度は、
「不幸の消防士になる」
という小見出しがあった。
読んでみるとこんな一文があり、笑ってしまった。
(引用)
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私は日常的に失敗をする。しかし、相手はそれを承知で私にその仕事を頼んだのである。承知していたかどうかはわからないけれど、その仕事が私に滞りなくできると信じてしまったのである。だから、私が失敗しても仕方ないのである。その人には自らの不明を恥じて、諦めてもらうしかない。
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『金田一秀穂のおとなの日本語』(海竜社)より
秀穂さんがいう「不幸の消防士」とはご自身のことであり、ご自身の失敗について怒る人を見て「喜んでいるようには見えない。ということは、この世界に私が原因で不幸な人が生じてしまう」(引用)ということで、謝罪をされているそうだ。
この飄々とした感じははぐらかしているわけではなく、正否を明らかにすることをさほど重視していない氏の考え、人間へのまなざしの優しさを表していると感じた。さすが、落語を愛する人だ。
前述の落語に関する項目には、こんな文があった。
(引用)
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古典落語で語られるのは、私たちのずっと昔の時代の日本である。その時代にも、私たちのような人はいて、笑ったり泣いたり困ったりしていたことを、落語は教えてくれる。
私たちは孤独ではない。前例のないところにいるわけではない。同じようなことは前にもあったし、それを乗り越えて今の私たちはある。
古典というのは、時代を超えた普遍性を示すものである。「徒然草」も、「時そば」も、同じ古典である。時代を超えた知恵がある。だから時代を超えて可笑しいし、時代を超えて感心してしまうのだ。
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同書より
すっかり秀穂さんの文章のファンになってしまった。
(もちろん本は買いました)
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